1.アナリスト
印刷情報は、なにも鮮度だけが命ではない
2025-11-21

真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目で見ることなのだ
―マルセル・プルースト(作家)―
百年前との奇妙な一致
思えば年の瀬で、今年は様々なことがあった年だと思い返す(コンサルタントというよりも、一市民として)。米国ではトランプ大統領が2期目の大統領職に就任、関税措置などの自国第一主義政策を打ち出し、世界的に民主主義と国際協調の在り方に議論が沸き起こった。日本では、夏の参院選では新興保守勢力である参政党が勢力を伸ばし、与党が衆参にて過半数を失った。
100年前も同様に、世界の民主主義においてエポックな年であったことは特筆すべきだ。1925年に、ドイツでは我が闘争の初版が発行され、イタリアではムッソリーニが独裁を宣言、日本では、初めて男子の普通参政権を認めた普通選挙法が施行されると同時に、治安維持法により大戦に至るまでの統治体制の一角が整備された。
こうしてみると、今年と百年前の世相・状況とは奇妙に一致している感があり、百年前の世界がその後に経験する大恐慌や大戦争に不安を覚えるものだ。
今年一番記憶に残ったスピーチ
今年を振り返ると、最も記憶に残ったスピーチは、ある新人を歓迎する会合における大学教授の祝辞だった。
曰く、諸君が2025年に新たにメンバーとなったことは意味深い。2025という数字を考えたとき、数字は45の平方数である。こうした整数の平方数である年は、よく考えると、歴史を変える年なのである。ひとつ前の44の平方数は1936で、1936年は、スペイン内戦が勃発し、ドイツ・ベルリンでナチス政権のプロパガンダの舞台ともなったオリンピックが開催、日本では近代史上最大のテロ事件である二・二六事件が発生した年である。さらに歴史を遡れば40の平方数年である1600年は、関ヶ原合戦が行われた年である。諸君には、この2025年という意味深い年に参画した意義をよく噛みしめて研鑽してほしい、というものだった。
一見、素晴らしいことを言っていそうなスピーチに感動を覚えそうになったが、よく考えると意味が分からない。スマホの電卓アプリを取り出して43の平方数年を計算すると1849年と出てきたが、西園寺公望公、乃木希典元帥の生誕年であるぐらいでエポックな年とは言えそうにない。その前の平方数年である1764年(42×42)はルイ15世の公娼ポンパドゥール夫人と画家ホガースの死没が出来事としてひねり出せるぐらいだ。
つまり、このスピーチの凄さは、特に意味のない情報(平方数年)と周知の事実(歴史上の出来事)を組み合わせ、2025年という平方数年があたかも意味ある年であると示唆を与え、新メンバーを鼓舞したという事実である。少なくとも、式場の面々は感動を覚えていたようだった。
冒頭の含蓄がありそうな文章は、私がそのスピーチを参考にWikipediaから2025年と1925年の主な出来事を拾ってきて、奇妙な一致ともっともらしい示唆を加えたに過ぎない。人間が勝手に設定した時間のスケールにおいて、十進法のなかで意味がありそうな100という数字の経過を迎えたポイントを切り取って比較しようとも、感傷に浸れるかもしれないが、実質的には無意味な行為に過ぎない。
陳腐化した(と思われる)情報から、言えることもある
数字に意味性を付与して示唆を出すのは、人心を鼓舞することぐらいにしか使えないが、同様に古い情報や既に周知されている公開情報において、意味のある示唆に繋げることはできる。
例えば、ある上場企業を分析する際、直近の財務諸表よりも、創業時の趣意書や数十年前に起きた不祥事の際の議事録を読む方が、その企業の「本質的なリスク」や「変わらない企業文化」を雄弁に語ってくれることがある。
または、クライアントが競合とする複数の企業について、世の中に既に開示された財務状況をプロットし直すことで、クライアント企業の業績の立ち位置を可視化することも出来る。
情報は鮮度が命と言われるし、古い情報は陳腐化しているとして切り捨ててしまう場合も多い。しかし、そうした情報にこそ、新たな軸を設定して分析し直すことで、むしろ示唆が得られることもある。頭を柔らかくして情報の世界を旅すれば、高度な分析手法に頼らずとも、既知の情報から未来を解く鍵を見いだせるものなのだ。
MAVIS PARTNERS アナリスト 為国智博








